ごま油の話(第2話)

ごま油の話(第2話)

 

お前は金がないから説得力がない

ごま油の話。前回からの続きです。

実家が結構な貧乏だったのと併せて、
友達から「お前は金がないから説得力がない」
と言われたことをきっかけに、
「お金を持っていない自分は力がなくて弱くて悪いんだ」
「お金が欲しい!もっとお金が欲しい!」
と思うようになりました。

結論から言うと
「お金が欲しいと思うのをやめたら、お金がどんどん入ってくるようになった」
のですが、
どうしてそうなれたのか、という経緯が知りたい、
という方がすごくたくさんいらっしゃるので、
このお話を書いています。

友達からそんなことを言われたのをきっかけに、
僕はともかくお金を稼がないといけないと思って、
車の免許をとって、バイト先(コンビニ)をやめて、
ハローワークに行って、
ある照明器具の設置屋さんに仮入社しました。

その会社は社長と古株のおじいちゃんと、
社長の息子と、パキスタンの方の4人でやっている小さい会社でした。

当時は「分煙パーテーション」と言って、
ファミレスの禁煙席と喫煙席の間に、
ガラスのついたてを作るのが流行り始めた頃でした。

「デニーズ」の分煙パーテーションを作るのが、
その会社の主な仕事でした。
あのついたてにも、照明器具がついてるんですよね。

重くてでかいガラスを手で運んで。
怪我もたくさんしました。

左手の手首にある大きな切り傷も、
右手の中指の付け根にある傷も、
ガラスで切った傷です。
(切断直後のガラスってものすごく鋭くて触っただけで切れるんです)

あと、右目の下まぶたにドライバーが刺さったこともありました(笑)

そんなこんな、怪我したり、
あと当然お店の営業時間中は作業できないから、
夜の工事が続いたり、全国各地のデニーズを回っていたから、
結構出張が多かったりで、大変な仕事でしたが、
まあまあ要領が良かったので、社長には認めてもらってました。
(いや、そうなのか?あれだけ怪我して?書きながら疑問になってきた、笑)

入社数カ月でボーナスももらえて、
残業手当も出張手当もいっぱい。
でも、僕はその仕事をもうやめたくなっていたんです。

入社して半年くらいのことでした。

 

 

仕事を辞めた本当の理由

理由は何かというと、
「社長の息子さんと、ソリが合わなかったから」
です。

というか、19歳の当時はそう思ってました。

仕事って、
「仕事内容」「給料」「人間関係」という3つのファクターがありますよね。
そのうちのどれかが著しく悪いと、
その仕事を続けていくことが辛くなってしまいます。

例えば、
お給料が良くて、人間関係が恵まれていても、
あまりにも嫌いな仕事内容だったら、
続けていくのが辛いですよね。

他のことについてもそうです。

19歳当時の僕としては、
社長の息子さんというその人一人が、
どうにも嫌だったんです。

だけど、
今になって思うんです。
「それは自分がそういう理由をつけていただけだ」
って。

給料や、仕事の内容を差し引いても、
実際そんなに嫌に人だったかっていうと(嫌な人だったけど)でも、
そこまで嫌な人ではなかったんですよね。

居酒屋に行って、
カシスオレンジ頼むようなかわいいおじさんでした。
すぐムキになるB型のおじさん(笑)

そんなに仕事を辞めるほど、その人が嫌いだったかっていうと、
別にそうじゃなかったと思うんです。

そうじゃなくて、
その仕事を辞めるために
「その人のことを嫌いにならなくてはいけなかった」
というのが、その時の真実です。
今思えば、ですけど。

じゃあ、本当はなぜやめたのか。

それは、
「僕自身が、どこに向かって生きているのかがわからなかったから」
です。

「っていったってあんた、19歳でしょ?そんなすぐにそんなの見つからないよ」
と思われるかもしれませんが、
僕中卒なんですよ。

僕の19歳って、
大卒の人の25歳くらいの感覚かもしれませんね。

毎日毎日仕事をしながら、思ってたんですよ。
「これいつまでやるんだろう」
って。

念のため言っておきますが、
その仕事が悪い、とかではないんです。

でも、
「果たしてこれって自分がしたい生きたかなのか」
って、思ってましたね。今思うと。

じゃあ、だからと言って、
自分がどんなふうに生きていきたいかっていうのを
明確にしたのかっていうと、
正直全然してきませんでした。

情けないですね。

そんな19歳。
僕はめでたくぷーたろーになりました。

 

 

コーヒー焙煎士になりインターネット店店長へ

19歳で仕事をしなくなった僕は、
とりあえずストリートミュージシャンに戻りました。
駅前でギターケースを広げて毎晩のように歌う日々。
一応オリジナルの歌とか歌ってたんです。

でもやっぱり、お金は全然ない。
どうしたもんかなーと思いながら歌っていたところに、
あるライブハウスの店長が通り掛かりました。

「うちにおいでよ」
その言葉に乗っかり、
そのライブハウスでアルバイトをすることになりました。

でも、そのお店だって貧乏なので、
それだけじゃ全然稼ぎにならない。

そこで父親に「なんか仕事ないかな」
ときくと、
「じゃあ、うちで仕事しろ」と。

うちの父はもう引退しましたが、
コーヒーの焙煎士をしていました。

小売もしているし、ホテルやレストランに卸売りもしていました。
自分で焙煎して自分で配達。
それが結構な重労働なんですよね。

それで、車を運転できるようになった僕に、
配達要員を任せたい、ということになったのでした。

しかし、父の店は決して経営状況が良かったわけではなく、
また、今思えば父は非常に経営などが苦手な人でした。
結局一人分の仕事を二人で分けているような状態。
その時の月給は12万円でした。

午前中に配達に出かけて、
11時頃には配達が終わっているのに、
車でぶらぶらしたり、河原に車を停めてぼーっとしたり。
それで夕方5時頃に帰ってきてたりしました。

配達だけでは時間があまりすぎることが父にもわかったようで、
「コーヒーの焙煎を覚えないか?」
と言われました。

20歳頃、僕はコーヒーの焙煎ができるようになりました。

そしてそれだけでは飽き足らず、
インターネット回線を事務所に引いて、
コーヒー屋さんのホームページを作り、
通販事業までスタートしました。

「インターネット店、店長」

これが社会人としての僕に最初についた肩書きでした。
ちょこちょこ売れてはいましたが、
それで店の売り上げの底上げができていたわけでもなく、
僕の薄給時代は続いていったのでした。

 

 

アルトサックスを吹くように

僕は父のコーヒー屋さんで、
焙煎の手伝い、配達の手伝いをしながら、
インターネット店の店長をしていました。

全く知識などはなかったのですが、
一から自力でホームページを作って通販していました。
今思うと、結構すごいなって思います(笑)

ぽつぽつと売れている感じで、
お店的にはあんまり利益は出せなかったですね。

そんなコーヒー屋さんで月12万円でお仕事しながら、
夜はライブハウスで働いていました。
木曜日はジャズセッション。

コンビニでバイトをしていた時に一緒だった人が、
中古のアルトサックスを安く譲ってくれたので、
僕も我流でジャズセッションに参加していました。

全く我流でしたが、ジャズは子供の頃からずっと聞いていたので、
なんとなくセッションになってました。
そのジャズセッションには、
なんと元SOIL&”PIMP”SESSIONSの元晴さんも遊びにきていました。
(今でもライブに行くと、僕のいる席まで来てくれたりします)

そんなころ、
僕はそのライブハウスで、
あるボーカリストと運命的な出会いを果たすのでした。

 

(続く)

コーチングカテゴリの最新記事